~ビアトリクス・ポター年譜と生涯~
1863年
父ルパート・ポターと母ヘレン・リーチが結婚。
父母は、19世紀初期に多額の財産を作った両親や先祖たちから財産を
相続しており、ヴィクトリア朝時代の裕福な中産階級の家庭だった。
1866年 (0歳)
7月28日ヘレン・ビアトリクス・ポター、イギリスのロンドン郊外のケンジ
ントン・西ブロムプトン街のボルトン・ガーデンズ二番地で法廷弁護士
ルパート・ポターと母へレンの長女として生まれる。
その後47年間ここに住む。
幼少時代
スコットランド出身の乳母から、妖精の話をたくさんしてもらったりして
興味をもつ。また、絵を描くことが好きになっていく。
上流階級で女の子は学校へ行かず、家庭教師につくのが普通だったため、
ミス・ハモンドから教育を受ける。

1872年 (6歳)
弟のパートラム誕生
避暑先のパース州ダンケルド町にあるダルガイス荘(スコットラ ンド)で
見つけた動物やロンドンのペットョップで買った動物たちを飼って絵に
描くようになる。
1875年 (9歳)
ウサギを擬人化した絵を書くようになる。
1881年 (15歳)
アニー・カーター(20歳)が家庭教師となり、ドイツ語とフランス語を教わる。
アルファベットの文字を、他のアルファベットに置きかえて文章にした
「暗号日記」を書きはじめる(~1897年)。

1882年 (16歳)
ウィンダーミア湖のレイ城で後にナショナル・トラストの名誉書記長まで
務めた牧師ハードウィック・ローンズリーと初めて出会う。
牧師は自然保護運動の事をビアトリクスに熱心に話し、彼女の父が
ナショナル・トラストの会員一号となった。
1884年 (16~18歳)
自然の豊かな湖水地方で休暇を取るようになる。
1885年 (19歳)
家庭教師アニー・カーターがエドウィン・ムーアと結婚し、家庭教師を
やめてしまう。ポターの家庭での勉強生活は終わる。
茸や菌類の研究に没頭し始める。
ポターにとって、そこで出会う植物や動物はすべて観察の対象でキノコや
コケに対する興味が強く、学術レベルにまで達するほどの細密なキノコの
水彩画や線描画を描く。自分の顕微鏡を使って独学でキノコを研究し、26
歳頃には王立植物園での研究活動を許可されるまでになる。
1880年後半
リューマチ熱に心臓を冒され、数年続けて夏の休暇に、湖水地方ケジック
近くのダーウェント湖畔のリングホーム邸に滞在。この頃にベンジャミン・
バウンサーと名付けたウサギを一匹飼う。
1890年 (24歳)
クリスマスカード向けに描いた絵がヒルデスハイマー&ファオルクナー社に
6ポンドで売れる。

1891年 (25歳)
スケッチ何枚かと小さい本を1冊、フレデリック・ウォーン社などの出版社
6社に送ったが全て断られてしまう。
1892年 (26歳)
ロンドンのシェパード・ブッシュのアックスブリッジ・ロードで4シリング6ペンスで
買ったウサギが家族になる。このウサギが<ピーターラビット>シリーズの原点
となった。
カエルを描いた一連の絵を小さな本にしたいと思ってドイツの会社ニスターへ
送り、子供向き雑誌を1年分合本したものに、一連の詩を添えた「釣りに出かけ
たカエル」(『ジェレミー・フィッシャーどんのおはなし』の原型)が収録されて22
シリング6ペンスの小切手を受け取る。
1893年 (27歳)
9月4日(ピーター・ラビット誕生)
元家庭教師アニー・ムーアの5歳になる長男ノエルの病気見舞いに、
ウサギの絵手紙を書く(『ピーターラビットのおはなし』 の原型となる)。
この頃、ベルギーウサギを買いピーター・パイパーと名付けて連れて
歩くようになる。

1895年 (29歳)
ローンズリー牧師が、ミス・オクタヴィア・ヒルとロバート・ハンター卿と共に
ナショナル・トラストを設立する。
1896年 (29歳)
おじのヘンリー・ロスコー卿に勧められて、リンネ協会で学術論文「ハラタケ属
の胞子発生について」を代読(当時女性は学会で発表が認められておらず、
発表は彼女の叔父が代読)で発表。
1896年 (30歳)
夏、初めてソーリー村(彼女が最期まで住んだ村)に滞在。
1901年夏 (35歳)
湖水地方ケジック近くのダーウェント湖畔のリングホーム邸に滞在中、ノーラ・
ムーアに尻尾の大半をなくしたリスに出会った事 を絵手紙に書く(『りすのナト
キンのおはなし』の原型)。12月にビアトリクスの絵の才能を最初に見つけ絵本を
書く事を勧めたローンズリー牧師が教えてくれた6つの出版社に『ピーターラビット
のおはなし』の原稿を送るが返却されたので、絵本『ピーターラビットのおはなし』
(The Tale of Peter Rabbit)を自費出版として1冊1シリング2ペンスで150部出版。
1902年2月 (36歳)
評判がよかったので、『ピーターラビットのおはなし』を200部増刷する。
『ピーターラビットのおはなし』を担当していたフレデ リック・ウォーン社のノーマン・
ウォーンと手紙で交渉し、校正刷りを調べにベドフォード・ストリートにある出版社を
訪ねた時に初めて会う。
10月
『ピーターラビットのおはなし』初版をロンドンのフレデリック・ウォーン社から
1シリングで出版すると大ヒット。1年間で5万部が売れ、人気作家となる。
12月
時々訪れていたグロースターシャーの従姉から聞いたお話をもとに私家版
『グロースターの仕立て屋』(The Tailor of Gloucester )を自費出版として
500部出版する。この年以後、1年にニ作の割りで絵本を出版する。
1903年 (37歳)
2匹のリスを買う。
8月頃
『りすのナトキンのおはなし』The Tale of Squirrel Nutkin)を出版する。
10月
『グロースターの仕立て屋』新版出版。
12月
自分で作ったピーターラビット人形を特許局に登録して、商品化を考えていく。
1904年 (38歳)
『ベンジャミンバニーのおはなし』(The Tale of Benjamin Bunny)と
『2ひきのわるいねずみのおはなし』(The Tale of Two Bad Mice)を出版。
1905年(39歳)
7月25日 ウェールズのメリオネス州クランベダーで過ごしていた時、
ノーマン・ウォーンから正式な結婚の申し込みを手紙で受け取る。
両親の反対を押し切ってノーマン・ウォーンと婚約する。

8月
ノーマン・ウォーンが白血病のために急死。
『ティギーおばさんのおはなし』(The Tale of Mrs. Tiggy-Winkle)と
『パイが二つあったおはなし』(The Tale of the Pie and the Patty-Pan)を出版。
本の印税で湖水地方ニア・ソーリー村にあるヒルトップ農場を購入する。
1906年 (40歳)
ソーリー村を舞台にした『ジェレミー・フィッシャーどんのおはなし』(The Tale of Mr. Jeremy Fisher)と『こわいわるいうさぎのおはなし』(The Story of a Fierce Bad
Rabbit)と『モペットちゃんのおはなし』(The Story of Miss Moppet)を出版。
ヒルトップの家を長期滞在できるように増築する。
1907年 (41歳)
9月 ソーリー村を舞台にした『こねこのトムのおはなし』(The Tale of Tom
Kitten)を出版。
1908年 (42歳)
夏にヒルトップ農場で飼っていたアヒルをモデルに『あひるのジマイマの
おはなし』(The Tale of Jemima Puddle-Duck)を出版。 ヒルトップ農場を
買ったときに家の中を走り回っていたネズミをモデルにした物語『ねこまき
だんごのおはなし』(The Roly-Poly Pudding)を出版するが(8年後に
『ひげのサムエルのおはなし』The Tale of Samuel Whiskersと改題)。
※お話を読むとねこまきだんごの意味がわかります。
1909年 (43歳)
母方の叔母の家にあるグウェニノグ滞在中に、庭のスケッチをし物語の
舞台にした『フロプシーのこどもたち』(The Tale of Flopsy Bunnies)を出版。
夏にニア・ソーリー村の端にあり、ヒルトップ農場から数百メートル離れた
カースル農場を購入する時、後の夫となる弁護士ウィ リアム・ヒーリスと
出会う。ポターの土地購入に協力する。
『「ジンジャーとピクルズや」のおはなし』(The Tale of Ginger and Pickles)を出版。
1910年 (44歳)
1月1日 ハロルド・ウォーンの娘ネリーへの新年のプレゼントに物語を書く
(『のねずみチュウチュウおくさんのおはなし』の原型)。
10月
『のねずみチュウチュウおくさんのおはなし』(The Tale of Mrs. Tittlemouse)を
出版。湖水地方を往復するのに時間を取られ作品の出版スピードが落ち、
この年はこの1冊のみになる。
1911年 (45歳)
『カルアシ・チミーのおはなし』(The Tale of Timmy Tiptoes)を出版。
また、ウィンダミア湖の水上飛行機反対運動に参加。
1912年秋 (46歳)
『キツネどんのおはなし』(The Tale of Mr. Tod)を出版する。
ウィリアム・ヒーリスから結婚の申し込みをされる。
両親の反対をうけて、ストレスでインフルエンザから肺炎になる。
1913年 (47歳)
4月頃 健康が回復する。
10月
『こぶたのピグリン・ブランドのおはなし』 (The Tale of Pigling
Bland)を出版する。
10月14日
ウィリアム・ヒーリスと結婚して、ソーリー村のカースル・コテージに移り住む。

1914年(48歳)
父ルパート・ポターが死去。母をソーリー村に呼ぶ。
8月
イギリスが第一次世界大戦に突入。1902年以来毎年出版されていた新作が
3年間途切れることになる。
1916年 (47歳)
ウォーン社から印税の支払いがないため、講義の手紙を書く。
1917年 (51歳)
4月 ウォーン社破産の危機に陥る。他の債権者に取られないようにポターの
原画がポターに全て返却される。
10月
ウォーン社再建の手助けに『アプリイ・ダプリイのわらべうた』(Appley Dapply's
Nursery Rhymes)を出版する。
1918年 (52歳)
弟のパートラム死去。
『まちねずみジョニーのおはなし』(The Tale of Johnny Town-Mouse)を
出版する。まちはホークスヘッド、いなかはソーリー村が舞台となって
書かれている。
1919年 (53歳)
新会社フレデリック・ウォーン・アンド・カンパニィ・リミテッドが設立され、
ポターは最大債権者となる。目の不調を訴えて、その後しばらく新作の
出版がなくなる。
1920年 (54歳)
ポターに大きな影響を与えた牧師ハードウィック・ローンズリー亡くなる
1921年 (55歳)
ニューヨーク公共図書館児童書室責任者のアン・キャロル・ムーアが
ポターをヒルトップに訪ねる。この後、続々とアメリカ人がポターを
訪れるようになる。

1922年 (56歳)
『セシリ・パセリのわらべうた』Cecily Parsley's Nursery Rhymes)を出版。
1924年 (58歳)
トラウトペック・パーク農場を購入。ポターは湖水地方の農家の中でも大地主となる。
1928年 (62歳)
2月ウォーン社社長フルーイング・ウォーン死去。ポターとウォーン家との
親しい友情は終わる。フルーイングの息子が家業を継がなかったため
義弟が社長に就任。
1929年 (63歳)
唯一の長編作品『妖精のキャラバン』(The Fairy Caravan)をアメリカで
出版する。ポターの生活を色濃く反映した物語だったのでイギリスでの
出版を渋るが著作権の問題から、結局は後にイギリスでも出版される。
1930年 (64歳)
『こぶたのロビンソンのおはなし』(The Tale of Little Pig Robi nson)を
アメリカとイギリスで出版する。
コニストン村の土地を自然保護の目的で購入。
全英ハードウィック種牧羊協会の女性で最初の会長となる。
1932年 (66歳)
『アンねえさん』(Sister Anne)をアメリカで出版する。
母ヘレンが死去、享年93歳。
1934年 (68歳)
ポターの作品は各国ですでに人気を得ており、フランス語、オランダ語、
ウィールズ語、ドイツ語、スペイン語、アフリカーンス語で手に入るようになる。
1936年 (70歳)
ウォルトディズニーが『ピーターラビットのおはなし』で映画を制作したい
と手紙を送ってくるが、自分の絵は向いてないと乗り気ではなかった。
1938年 (72歳)
入院して簡単な手術を受けて10日ほどで退院。
1939年 (73歳)
過労で入院。遺書を用意するが、数ヵ月後には回復し退院。
9月イギリス第二次世界大戦に突入。
1941年(75歳)
イギリス本土の空襲がひどくなり、ポターは全ての原画をソーリー村に
保管する。戦争中でもポターの絵本は良く売れた。
1943年 (77歳)
12月22日 ビアトリクス・ポターが死去、享年77歳。
「ジマイマの森」の外れの野原に信頼していた羊飼いの手によって
遺骨の灰が撒かれた。遺骨をまいた場所は秘密にするように言われて
おり約束は守られた。遺言で、美しい湖水地方の田園風景を残すため、
絵本の印税や伯母の遺産で買い求めた湖水地方の全所有地と作品を
ナショナル・トラストに寄付する。そのため、作品に描かれた風景や建物を
100年経った現在でも物語と同じく見る事ができます。
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